日本人の倫理観と道徳観の低下を考える
先日、会社の駐車場を掃除しているときに、
駐車場の隅のところに袋に入った犬の糞が捨てられているのを見つけてしまいました。
世の中では決して珍しい光景ではないのかもしれません。
それでも、その場に立ち止まり、しばらく考えてしまいました。
汚いという気持ち以上に、
怒りや、どこかやりきれない感情が残ったからです。
袋に入っているということは、
処理すべきものだという認識はあったはずです。
それでも最後まで責任を持たず、そこに置いていった。
その行為に、強い憤りと違和感を覚えました。
その行動基準は、どこから生まれているのでしょうか
この出来事をきっかけに、
私は「人はどのような基準で行動を選んでいるのだろうか」と考えるようになりました。
同じ行為であっても、
それが自分の家なのか、職場なのか、公共の場所なのかによって、
判断が変わってしまうことはないでしょうか。
もしそれが自宅の玄関先や、自分の敷地、
家族が毎日使う場所だったとしたら、
同じ行動を取るかどうか、自然と立ち止まって考えるはずです。
そう考えると問題は、
場所そのものではなく、
私たち一人ひとりが持っている行動基準そのものにあるのかもしれません。
私は「人はどのような基準で行動を選んでいるのだろうか」と考えるようになりました。
同じ行為であっても、
それが自分の家なのか、職場なのか、公共の場所なのかによって、
判断が変わってしまうことはないでしょうか。
もしそれが自宅の玄関先や、自分の敷地、
家族が毎日使う場所だったとしたら、
同じ行動を取るかどうか、自然と立ち止まって考えるはずです。
そう考えると問題は、
場所そのものではなく、
私たち一人ひとりが持っている行動基準そのものにあるのかもしれません。
似たような光景に、心当たりはないでしょうか
この出来事を思い返していると、
私はほかにも、日常の中で目にする光景がいくつか浮かんできました。
道端に落ちているタバコの吸い殻や、
排水溝のそばに置かれたペットボトル、
公園の隅に残された空き缶などです。
どれも、特別な出来事ではありません。
だからこそ、見慣れてしまい、
いつの間にか違和感を持たなくなっているのかもしれません。
しかし、こうした一つひとつの光景の奥には、
共通する考え方が潜んでいるように感じています。
私はほかにも、日常の中で目にする光景がいくつか浮かんできました。
道端に落ちているタバコの吸い殻や、
排水溝のそばに置かれたペットボトル、
公園の隅に残された空き缶などです。
どれも、特別な出来事ではありません。
だからこそ、見慣れてしまい、
いつの間にか違和感を持たなくなっているのかもしれません。
しかし、こうした一つひとつの光景の奥には、
共通する考え方が潜んでいるように感じています。
「自分がされて嫌なこと」を、なぜ人にできるのでしょうか
もし、自分の家の前に
誰かがゴミを捨てていったら、どう感じるでしょうか。
多くの方が、不快に感じ、怒りを覚えると思います。
それにもかかわらず、
自分がされて嫌なことを、
他人にはしてしまう場面がある。
そして、自分が被害を受けた立場になると、
必要以上に怒ってしまう。
そのときに使われがちなのが、
「これはこれ、それはそれ」という考え方ではないでしょうか。
状況を分けて考えること自体が悪いわけではありません。
ただ、それが倫理観や道徳観まで切り分けてしまっていないか、
一度立ち止まって考える必要があるように感じます。
誰かがゴミを捨てていったら、どう感じるでしょうか。
多くの方が、不快に感じ、怒りを覚えると思います。
それにもかかわらず、
自分がされて嫌なことを、
他人にはしてしまう場面がある。
そして、自分が被害を受けた立場になると、
必要以上に怒ってしまう。
そのときに使われがちなのが、
「これはこれ、それはそれ」という考え方ではないでしょうか。
状況を分けて考えること自体が悪いわけではありません。
ただ、それが倫理観や道徳観まで切り分けてしまっていないか、
一度立ち止まって考える必要があるように感じます。
この考え方は、仕事にも影響するように思います
こうした価値観は、
私生活だけで完結するものではないと思います。
日常の判断基準は、
仕事の場面にも自然と表れてくるのではないでしょうか。
見えないところで手を抜いてしまうこと。
自分に都合の悪いことを後回しにしてしまうこと。
責任を曖昧にしてしまうこと。
こうした行動の背景には、
日々の生活の中で育まれた考え方があるように思います。
私生活だけで完結するものではないと思います。
日常の判断基準は、
仕事の場面にも自然と表れてくるのではないでしょうか。
見えないところで手を抜いてしまうこと。
自分に都合の悪いことを後回しにしてしまうこと。
責任を曖昧にしてしまうこと。
こうした行動の背景には、
日々の生活の中で育まれた考え方があるように思います。
経営者に求められる役割について
企業経営において、利益を出すことは非常に重要です。
それは否定できない現実だと思います。
一方で、経営者には
社員一人ひとりの倫理観や道徳観を育てていく役割もあるのではないでしょうか。
数字や結果だけが評価される環境では、
「これはこれ、それはそれ」という考え方が、
組織の中に広がってしまう可能性もあります。
倫理やモラルは、
マニュアルや研修だけで身につくものではありません。
日々の判断や姿勢、
経営者自身の行動が、最も大きな影響を与えるように思います。
それは否定できない現実だと思います。
一方で、経営者には
社員一人ひとりの倫理観や道徳観を育てていく役割もあるのではないでしょうか。
数字や結果だけが評価される環境では、
「これはこれ、それはそれ」という考え方が、
組織の中に広がってしまう可能性もあります。
倫理やモラルは、
マニュアルや研修だけで身につくものではありません。
日々の判断や姿勢、
経営者自身の行動が、最も大きな影響を与えるように思います。
見られていなければいい、という価値観について
今回の出来事を通して、
「誰も見ていなければいい」という考え方が、
以前より強くなっているように感じました。
かつての日本には、
自分がされて嫌なことは人にしない
見られていなくても恥ずかしいことはしない
誰も見ていなくても、おてんとうさまが見ている
そうした感覚が、自然に共有されていたように思います。
これは宗教的な意味ではなく、
自分自身を律するための価値観だったのではないでしょうか。
「誰も見ていなければいい」という考え方が、
以前より強くなっているように感じました。
かつての日本には、
自分がされて嫌なことは人にしない
見られていなくても恥ずかしいことはしない
誰も見ていなくても、おてんとうさまが見ている
そうした感覚が、自然に共有されていたように思います。
これは宗教的な意味ではなく、
自分自身を律するための価値観だったのではないでしょうか。
教育について考えさせられること
現在の教育では、
権利について学ぶ機会は多い
ルールについても教えられる
一方で、
「なぜそれを守るのか」
「その行動が誰に影響するのか」
といった部分は、十分に考えられているでしょうか。
知識や技術だけでなく、
倫理観や道徳観を育てる教育が、
より重要になっているように感じます。
権利について学ぶ機会は多い
ルールについても教えられる
一方で、
「なぜそれを守るのか」
「その行動が誰に影響するのか」
といった部分は、十分に考えられているでしょうか。
知識や技術だけでなく、
倫理観や道徳観を育てる教育が、
より重要になっているように感じます。
誰かを責めたいわけではありません
この文章は、
特定の人を非難するために書いているわけではありません。
ただ、
日本人が大切にしてきた倫理観や道徳観が、
少しずつ薄れているように感じ、
そのことについて考えたことを書き留めました。
この考え方が正解だと言いたいわけでもありません。
ただ、こうした出来事をきっかけに、
それぞれが自分の行動を振り返る時間を持てたら、
それだけでも意味があるのではないかと思っています。
特定の人を非難するために書いているわけではありません。
ただ、
日本人が大切にしてきた倫理観や道徳観が、
少しずつ薄れているように感じ、
そのことについて考えたことを書き留めました。
この考え方が正解だと言いたいわけでもありません。
ただ、こうした出来事をきっかけに、
それぞれが自分の行動を振り返る時間を持てたら、
それだけでも意味があるのではないかと思っています。
せめて、自分だけは
社会全体をすぐに変えることは難しいかもしれません。
それでも、自分の行動を選ぶことはできます。
誰も見ていなくても、
自分自身が見ている。
おてんとうさまが見ている。
そんな感覚を、これからも大切にしていきたいと思います。
せめて、自分だけは。
そう思いながら、日々の仕事や生活に向き合っていきたいです。
それでも、自分の行動を選ぶことはできます。
誰も見ていなくても、
自分自身が見ている。
おてんとうさまが見ている。
そんな感覚を、これからも大切にしていきたいと思います。
せめて、自分だけは。
そう思いながら、日々の仕事や生活に向き合っていきたいです。